2010年11月25日

戦場から女優へ (単行本) サヘル ローズ (著), Sahel Rosa (原著)

それはともかく、最近、感動した本を紹介。
戦争孤児と、養母の壮絶な記録です。

戦場から女優へ (単行本)
サヘル ローズ (著), Sahel Rosa (原著)


という本があります。

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これは感動します。
イラン人のホームレス親子の話です。
もちろん実話。


ついつい引き込まれて一気に最後まで読みきってしまいました。

イラン・イラク戦争で壊滅した村。
家族全員が死亡。
村人全部が死亡。

救助隊のボランティアの女性が瓦礫の中をさまよい、
最後に目にとめた青い花。そこに幼い彼女の手が。
死にかけた主人公。
その主人公を助けたボランティアの女性(独身)は、
死にかけた4歳の戦争孤児を養子にすることにした。

それゆえに養母は金持ち一族から追放され、
ホームレスとなります。

唯一の望みは日本人のフィアンセ。
そのフィアンセをたよって日本に到着するのですが、
このフィアンセに捨てられる。

イラン人の養母と、娘はホームレスとなる。
警察の目を逃れて公園の土管で生活する。

自分も飢えながらも子供に注ぐ母の愛情。
その愛を受け止めて必死に母に喜んでもらおうと頑張る彼女。
極貧の生活の彼女らを救ったのは・・・・?

そして極貧故にイジメがはじまる。
極貧故に、子供の誕生会で、
みすぼらしいケーキしか出せなかったお母さん。
そこからイジメがはじまるのだが、
それをお母さんに気づかれないように芝居する娘。

とにかく泣ける!
涙無しには読めない。


そして、その親子の娘は
今は女優さんになっています。
お母さんへ芝居しているうちに、
本物の女優になってしまった。

よかった、よかった。

これが、オフィシャルサイト。

http://sahel.mlacky.net/index2.html

こちらがブログ。

http://blog.goo.ne.jp/jasmine_angle_12_24


ちなみに主人公の彼女(サヘル)は、
最初に紹介した動画の
科学忍者隊ガッチャピン
に出演しています。

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posted by ss at 10:37| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

森を歩く―森林セラピーへのいざない

実は、こんな本が欲しかったんです。「森林療法」「森林セラピー」について詳しく解説してくれ、そして案内してくれる本が。

森を歩く―森林セラピーへのいざない
(角川SSC新書カラー版) (新書)
田中 淳夫 (著)

新書: 175ページ
出版社: 角川SSコミュニケーションズ (2009/03)

内容(「BOOK」データベースより)
近年、耳にするようになった「森林療法」や「森林セラピー」という言葉。これまでは感覚的にしか捉えられていなかった森の持つ力を、科学的に解明しようという研究も始まった。そのひとつが林野庁を中心とした「森林セラピー」事業。2009年3月現在、全国に31カ所の森林セラピー基地、4カ所のセラピーロードが認定されている。本書では森林療法の成り立ちや施術の方法だけでなく、ドイツのクナイプ療法についても紹介、森林が人を癒す仕組みについて考察した。さらにおすすめの森林セラピー基地10カ所もルポ。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
田中 淳夫
1959年大阪生まれ。静岡大学農学部林学科卒業後、出版社・新聞社を経て、現在フリーの森林ジャーナリスト(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


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私は、以前からホームページで

http://homepage2.nifty.com/blue_berry/00-top-51.htm

北軽井沢で森林浴を楽しみましょうと、言ってきましたが、森林浴の具体的な方法論については、詳細に書いてきませんでしたね。実際、北軽井沢ブルーベリーYGH のツアーも、散歩とかハイキングとか、インタープリテーションプログラムとか、ネイチャーウオッチングくらいしか、やってきませんでした。

 しかし、この本には、もっと多彩なバリエーションの森林浴。つまり「森林療法」「森林セラピー」が紹介されています。森林ヨガ、スノーキャロット、森林トレーナー、人間に会わない森林浴、マタギ道、宗教セラピー、天空ラセピーなど。一言で、森林療法、森林セラピーといっても色々な、やり方があるのですね。いまさらながら考えさせられました。

 しかし、この本の面白いところは、それらの各種セラピーの紹介よりも、第1部の「森は本当に人を癒せるのか」の部分の記事です。「どうやら森林が、病気によいらしい」という意見は、山岳関係者には常識になっていますが、実は、根拠が曖昧だったりするんですね。経験で感じているだけだったりする。それについて、第1部の「森は本当に人を癒せるのか」について詳しく述べられています。

 ここで、上原巌さんが登場します。この方がキーポイントになる方なのですが、恥ずかしながら私は、この方を名前くらいしか知りませんでした。軽井沢で盛んに森林療法研究会が開かれていたのも知らなかった。本当にお恥ずかしい。森林療法研究会については、私が説明するより下記のサイトを御覧ください。

http://www.geocities.jp/ueharaiwao/
http://www.janis.or.jp/users/bigrock/

ちなみに、この本の著者のブログが公開されています。
森林ジャーナリスト・田中淳夫さんのブログです。
下記をごらんください。

http://ikoma.cocolog-nifty.com/moritoinaka/
http://homepage2.nifty.com/tankenka/chosha.html

購入は、こちらで。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4827550662/morikoroweb-22

それにしても、どうして今まで日本森林療法協会に注目してなかったんだろう? そういう意味では、著者の田中淳夫さんに感謝。
posted by ss at 10:36| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ホームレス中学生

ホームレス中学生を立ち読みしてしまった。
買うほどの本ではないと思いましたが面白かった。

posted by ss at 10:35| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

>山本七平著 「空気」の研究

山本七平著 「空気」の研究


私たちは「空気読めよ」と言ってますが、「空気」って何でしょう? 実は、日本が戦争やバブルでこれだけだめになったのはその「空気」のせいです。過去を振り返ってみるにいかに「空気」のせいで日本が失敗したでしょうか。

 イジメも空気が原因になります。
 また、空気作りの名人は、黒幕になれます。

 この本を読むと「空気」という言葉が使えなくなります。「空気」という言葉の怖さを知りつつも、「空気」を読まないことには社会の中では生きていけないのが現状です。そこで空気作りのメカニズムを理解することと、そして「空気」に対抗する唯一の手段「水を差す」などについて知る必用があります。そのための教科書か、この本です。

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 どのような「空気」を盛り上げて
 「水を差す者」を沈黙させても、
 「通常性」は遠慮なく「水」を差しつづける。

 そしてわれわれは常に、
 論理的判断の基準と、
 空気的判断の基準という、
 一種のダブルスタンダードのもとに生きています。

 われわれが通常口にするのは論理的判断の基準ですが、本当の決断の基準となっているのは、
「空気が許さない」
という空気的判断の基準です。

 戦後直後、「自由」について語った多くの人の言葉は結局
「いつでも水が差せる自由」
を行使しうる「空気」を醸成することに専念しているからです。

 人が「空気」を本当に把握し得たとき、
 その人は空気の拘束から脱却できます。


山本七平著 「空気」の研究より
posted by ss at 10:35| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月19日

漢字は日本語である (新潮新書/小駒勝美/著)

漢字は日本語である (新潮新書/小駒勝美/著)





 この本は、脳科学者「養老孟司」さんの各種の著述と一緒に読まないと、誤解されるというか、誤読されるおそれがある本です。

 日本の漢字と、台湾・中国・ベトナム・朝鮮の漢字は、全く別の文字であるからです。その差は、ギリシャ文字と、英語のアルファベットの差よりおおきいのです。それを詳しく述べているのが、脳科学者の「養老孟司」さんなのです。養老孟司さんは言いました。一つの文字(漢字)には、一つの音しかないのが、(日本以外の)世界中の漢字文化圏の原則なのです。

 しかし、日本には、音読みと、訓読みの2つの読み方があり、さらに呉音と漢音があり、当て字があって、略字や筆記体があり、名前にだけ使える「名乗り」という読み方もあります。三浦知良(かずよし)という名前がありますが、「知」という文字は、訓読みでも「かず」とは読みません。訓読みではないのです。名乗りで「かず」と読むのです。つまり、音読み・訓読み以外の読み方である名乗りの読み方なんですね。

 「寿司」という文字は、当て字とよばれる読み方です。「すし」を漢字で書く場合、正解は、鮨・鮓の2つしかありません。「お腹」も当て字です。本当は「御中(おなか)」が正解になります。けっして「おんちゅう」ではありません。このように文字に、いくつもの読み方があるのは、日本だけの現象で、他のアジア諸国では、1つの文字に1つの読み方しかありません。これは、英語でもロシア語でもアラビア語でも一緒です。しかし、日本語は、1つの文字に多くの読み方があるのです。この文化が、日本に強力な「マンガ・アニメ文化」をつくり、「携帯小説
 ・ライトノベル」を量産する背景となり、インターネットで顔文字が氾濫する原因となっています。

 ところが、この漫画やアニメ・携帯小説・ライトノベルをバカにする風潮があります。しかし、それは見当違いであることが、現在では脳科学者によって証明されています。漫画は、人々をバカにするどころか、人間の知能を飛躍的に高めるということが、脳科学の立場から言われ始めているのです。その代表格が『バカの壁』で有名な養老孟司さんです。



 養老孟司さんによると、マンガを読むときは複雑な脳の活動を要求されるらしい。マンガの絵には、いろんな意味があり、吹き出しの中の文字には漢字があり、そこにルビがふってあり、別の意味をあらわすこともある。さらにコマ割に意味があり、背景にも意味があったりする。それらが脳に複雑な要求を行うのです。

 私は、子供の頃、マンガ好きだったのですが、10年くらい読まなかった時期がありました。そして10年ぶりにマンガを読もうとしたら異様に疲れた覚えがあります。本の文字を読むより疲れた。マンガは慣れないと読みにくいのです。つまり脳を複雑に使うために、簡単には読めないのです。だから、余計にマンガを理解できない人たちも多いのですね。

 ところで、どうして脳科学者たちが、マンガに注目したかと言いますと、こういうことです。交通事故か何かで脳に障がいをうけ、漢字を読めなくなるひとがでてくるとします。ところが、カタカナは読めたりするのです。その逆もあったりする。ところが、こういう例は海外には無いのですね。日本だけの現象なのです。

 アメリカ人も、中国人も、インド人も、文字が読めなくなったら全部の文字が読めなくなる。日本人みたいに漢字だけ読めて、カタカナは読めないと言うケースは無いのです。読めないときには、全て読めなくなるのです。ところが日本人だけは例外なのです。日本人みたいに漢字だけ読めて、カタカナは読めないと言うケースもでてくる。

 この原因を脳科学者たちが究明すると、カナを読む脳と、漢字を読む脳は、別の場所であることがわかりました。表音文字のカナを読む脳の部分は「角回」という場所であり、漢字を読む場所は「左側頭葉後下部」だったのです。だから、「角回」だけが故障しても日本人は漢字だけは読める。新聞でも漢字だけ追えば、大体の意味は分かる。逆の場合もある。しかし、西洋のように表音文字を使っている場合は失読症になるのです。

 ということは、日本人が読書する場合は、脳の「角回」と「左側頭葉後下部」を使っているわけであり、日本人以外は「角回」だけを使っていることになる。そのために読書のスピード違ってくる。日本語の本は、英語の本の4倍の速度で読めてしまうのです。この事実は、言語学者の間で大昔から知られた事でした。翻訳する人たちの大半が、日本語を英訳する方が、その逆よりも早いと言っています。読む速度が違ってくるからです。

 じゃあ中国人は?

 中国人は、欧米人と一緒です。脳の「角回」しか使ってない。
 だから中国人も本を読む速度が遅いんです。
 日本と同じ漢字を使っていながら脳の「角回」しか使ってない。

 どうしてか?

 dogはドッグで別な読みはありません。
 catもキャットであって、catをドックとは言いません。
 1対1が原則なのです。
 これは、カタカナやヒラガナと一緒ですね。
 しかし、漢字はそうではありません。
 例として「重」という漢字をあげてみましょう。

 中国語としての「重」には音声は1つしかない。
 これは英語と一緒ですね。
 脳の「角回」しか使ってない。

 しかし、日本語では「じゅう」「ちょう」「おも」「かさ」「え」という多くの読みがあります。つまり脳の「角回」では読めない。で、左側頭葉後下部(つまり言語中枢)を使わざるをえないのです。つまり、中国で使われている漢字と、日本の漢字は、まるで違う言語であるということなんですね。それを『漢字は日本語である (新潮新書/小駒勝美/著)』の小駒勝美さんは、漢字学者の立場から言っているのですが、それがAmazonのレビューを書いている人に、きちんと伝わってない。

 実に「惜しい」と言わざるをえない。もっとも、この本は、学術書というより漢字研究者による「雑学本」であり「豆知識本」なので、突っこんだ話しは、わざと避けているので仕方ないのですが、それにしても惜しい。

 ただ、「雑学本・豆知識本」としての本書は、最高レベルの本であり、読むうちに漢字の魅力にとりつかれてしまいます。

 たとえば、漢和辞典の致命的な欠陥について述べています。

 漢和辞典は、漢文を読むための辞典だったのです。ところが、現代の日本人が接する漢字は、あくまで日本語に使われる漢字なのです。したがって、漢和辞典で日本語に使われる漢字を調べるのは、どうしても無理があります。漢和辞典には、日本語で使用される熟語がきちんと収録されてはいません。漢字一字一字の意味も、日本語では、中国の古典に使われるのとはかなり変化しています。しかし漢字は日本語でもあるのです。「秋桜(コスモス)」や「秋刀魚(さんま)」は、漢和辞典には載っていないのですね。

 また、同じ意味でも全く違う漢字を使うのが日本人の面白いところです。


 例えば「お椀」について。
 木製なら「椀」
 陶製なら「碗」
 鉄製だと「鋺」

 「あいづち」は、「相槌」でも「相鎚」でも正解。
 最初は、相槌だったのでしょうが、
 金槌の登場で相鎚でも間違いでなくなってしまった。


 玉と王が同じ意味であること。


 竜と龍も同じ意味。
 竜は新字。
 龍は旧字。
 よーするに国と國の違いと一緒。


 隣と鄰は、もともと同じ文字。形が違うだけ。
 峰と峯は、もともと同じ文字。形が違うだけ。
 裏と裡は、もともと同じ文字。形が違うだけ。
 娘と嬢は、もともと同じ文字。形が違うだけ。


 これが極端になると、渡辺。渡辺には56種類の異体があります。


 准看護婦の「准」という文字は、「準」の俗字。
 つまり同じ文字なのですが、
 どうして、この文字が常用漢字に入っているかというと、
「日本国憲法」に使われているからです。

 終戦直後に大急ぎで日本国憲法をマッカーサーから作らされたときに、慌ててGHQの原案を翻訳したときに、ついうっかり「条約を批准」というところに俗字を使ってしまった。うっかりしたんですね。しかし、憲法は、改正できないので、准という文字を常用漢字にしてしまい、准と準の2つの文字が出来てしまった。


 しかし、斉藤と斎藤は全く別の文字。
 斉藤は、「ひとしい」の意味。一斉という使い方をします。
 斎藤は、「身を清める」の意味。書斎・斎宮という使い方をします。
 つまり全く別の漢字なんですね。
posted by ss at 01:58| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月05日

武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)

武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)
磯田 道史 (著)



 この本が映画化されると聞いたときは
「ぜってー無理だ」
と思っていましたが、もう公開間近です。



 そもそも「武士の家計簿」なる本は、小説でもなんでもなく、学術書です。

 はじまりは、著者が神田の古書店で、30年近く書き込まれた武士の家計簿を発見し、それを調査したら、驚愕な新事実を発見したことにはじまります。私が、この本を読んだのが7年前でしたが、数ページ読んだだけで、ひっくりかえるくらい驚いた記憶があります。学校の歴史の授業は、嘘ばっかり教えていることは、よく知ってましたが、この本を読んだとき、日本史の根本が全く分かってなかったことに気がつかされ、しばらく茫然自失した記憶があります。

 例えば、金沢藩・猪山家(70石)の当主直之の小遣いは、年間にして銀19匁。しかし、家来の草履取りの給金は、銀83匁と月々50文の小遣い。それに年3回の御祝儀をもらい、外出するたびに15文の駄賃(チップ)をもらっていました。外出は、2日に1回くらいありましたから、そうとうの金額をもらっていたことになります。しかも衣食住は保障されていました。つまり、家来の草履取りの収入は、当主の10倍くらいあったわけです。

 よく「武士は食わねど高楊枝」と言いますが、これは本当のことだったのですね。家来は、草履取りといった卑屈な仕事をしていても、たくさん金をもらっていましたが、当主の小遣いは、草履取りの1割もない。当然のことながら、家来は、その家計の状態を知っていますから、武士たちが、どんなに威張ってても、草履取りは尊敬していたわけです。

 じゃあ、70石どりの武士の当主の小遣いが、どうして、それほどまでに少なかったかと言いますと、これにも訳がある。給料の大半を「身分費用」に使っていたのです。自分の家来に小遣いをわたしたし、来訪があれば、相手方の家来にも祝儀をわたしていました。つまり、来客があれば、じゃんじゃん金が無くなっていく。さらに辻番にも金品をわたしていた。

 じゃ、来客が無ければよいじゃないかと思うのですが、そうはいかない。武士の身分になると、さまざまな行事があり、そのつど親戚一同が集まるしきたりになっている。節分や、端午の節句や、袴入れの儀式、元服や、七五三など。そういう行事が毎日のようにあり、おおぜいの親戚が集まり、逆に親戚のところに出かける必要がある。これを怠るとどういうことになるかと言うと、武士でいられなくなる。具体的に言うと、武士教育がなりたたないのと、万が一、世継ぎが出来なかったばあい、家名が断絶するおそれがある。だから、親戚づきあいを非常に大切に
 したのですね。で、その費用が、莫大な金額になっています。で、草履取りなどの家来たちは、そういった行事があるたびに御祝儀をもらっていたから、武家社会の最大の利益者は、草履取りなどになった、農村の次男坊たちであったかもしれません。

 ここで著者は言います。

「江戸時代は、圧倒的な勝ち組を作らない社会であった。武士たちは、威張っていますが、家来草履取りの給料より少ない収入でいる。幕末の日本に百姓一揆が、大発生していますが、百姓たちは絶対に武士にとってかわって政権を奪おうとしなかった理由が、ここにあります」

 このへんを読んだときに
「なるほど!」
と大声をだし、嫁さんに訝しがられた記憶があります。

 これじゃ革命がおきようがない。
 日本社会に革命がなかったのは、まさにこれが原因だったかもしれません。
 驚くべきは、他にもあります。

 明治維新後、失業した武士たちの多くが銀行員となって成功してたことは、前々から知っていましたが、その理由も本書であきらかにされています。江戸時代の武士たちは、トレーダーであった事実が、彼らの家計簿でわかったからです。どういうことかと言いますと、彼らは、年貢を現物で支給されていなかったからです。

 猪山家の家禄は70石と切米50俵です。金沢藩の1俵は5斗なので、合計95石。このうち税収が42石。42石うち屋敷に運んだ米が8石。家来含めて8人家族だったので8石だけ、屋敷に運び、のこりの34石を銀に両替しています。この他に拝料金を8両もらっていました。つまり、金・銀で給料をもらっていたのですが、金銀では買い物が出来なかったのですね。銭に両替しなければならない。で、FXをやっていたわけです。あと、米の換金レートにも敏感に対応しなければ、損をするので、江戸時代の武士たちは、意外にことに、みんなトレーダーであったわけです。

 こういった事実を突き止めていくと、なぜ明治維新が成功したのか? なぜ明治政府が、武士たちの録をとりあげても不満が少なかったのかが、少しづつ見えてくるのです。そういう意味で、この本は歴史に興味ある人には、必読の書ですが、この本を、どのように映画化したのか? そのへんが気になります。

 なにか、著者の研究成果を、無茶苦茶にされてなければいいのですが。宣伝動画をみると、何か嫌な予感がします。映画に、へんないじくりがないことを祈ります。と同時に、原書を読む人が、もっと増えて欲しい。
posted by ss at 05:32| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月22日

自助論・スマイルズのくれた贈物

自助論・スマイルズのくれた贈物

 自助論。この本は、イギリスが最も偉大だった時代に、多くのイギリスの人々の心を動かした本です。
「天は自ら助くる者を助く」
と、スマイルズは言いました。そして、スマイルズの言葉は続きます。

「外部からの援助は人間を弱します。自分で自分を助けようとする精神こそ、その人を奮い立たせるのです。よかれと思って援助の手をさしのべても、相手の自立心を失なわせることがあります。保護や抑制も度がすぎると、役に立たない無気力な人間をつくる事になるのです」

 このスマイルズの「自分で自分を助ける精神」という言葉が、「自助論」と言う言葉であり、「天は自ら助くる者を助く」と言う言葉なのです。では、スマイルズは、その著書「自助論」で、何を書いているかを、少々説明してみたいと思います。

「人は、いつの時代でも、幸福や繁栄は、自分の行動で得られるのではなく、制度の力で得られるものだと信じたがります。だから、『制度(法律)さえ変えれば、人間は進歩していく』などという過大評価が当たり前のようにまかりとおってきました。でも、どんなに素晴らしい制度も、怠け者を勤勉にする事はできません。浪費家を倹約家にする事もできません。酒飲みを酒嫌いにする事もできません」

 異論のある人もいるかと思いますが、大切なことは、当時のイギリス国民のほとんどが、この「自助論」に「なるほど!」と思ったことです。そして、そのイギリス国民が、産業革命や議会制民主主義を興し世界で最も栄えていったという事実なのです。

「政治とは、国民の考えや行動の繁栄にすぎません。どんなに高い理想をかかげても、国民がそれについていけなければ、政治は国民のレベルまで下げられるものです。逆に、どんなに酷い政治でも、国民が優秀であれば、いつしか政治は国民のレベルまで引上げられるものです。つまり国民全体が、その国の政治の質を決定するのです。これは、水が高い所から低い所へ流れる事と同じくらい、あたりまえのことなのです」

「われわれ一人一人が勤勉に働き、活力と正直な心を失わない限り、社会は進歩します。逆に怠惰とエゴイズム、悪徳が国民にはびこれば社会は荒廃します。いくら法律(制度)の力を借りたとしても、社会悪を根絶する事はできません。しかし、国民が自発的に自分を高めていけるように援助し、励まし合っていけば、悪やエゴイズムを葬り去る事は不可能ではないのです」

 「自助論」の中の一説です。この考えは、当時のイギリス国民に大いに受入れられました。何故イギリスで、世界で最初に議会制民主主義が発達したかわかると言うものです。さらにスマイルズは、その「自助論」で、こう述べています。

「すべては人間が自らを、どう支配するかにかかっています。それに比べれば、その人が外部に、どう支配されるかと言う問題は、さほど重要ではありません。例えば暴君に統治された国民は、確かに不幸です。しかし、自分自身に対する無知やエゴイズムや悪徳のとりこになった人間の方が、はるかに奴隷に近いのです」

 スマイルズの考えの根底は、人間の内面を重視している所です。「社会が悪い」とか「政府が悪い」と言うのではなく、いかに自分の成長に努力を傾けるかと言うことを重視しています。
 人が人である限り、必ずと言っていいほど外部に支配されます。政府に支配されます。宗教にも支配されることがあります。会社にも、慣習にも、先輩にも支配される事があるでしょう。それに不満を持つ人は多いことと思います。けれど、自分の内部に不満を持つ人は多くないような気がします。

 スマイルズは、自分の内部が、無知やエゴイズムや悪徳に支配されることの方が、問題だと言っているのです。社会を批判し、社会の変革を求めるよりも、自分の心の変革を求めることが重大だと言ってるのです。素晴らしい『心』を持つことが大切だと言ってるのです。そして、その素晴らしい『心』は国の政治体制をも変えうると言っているのです。 吉田松陰は、牢獄にいながら人の『心』を動かし、日本の歴史を変えていった人です。こういう人が存在していることを思うと、私はスマイルズの言ってることが、あながち間違いでないような気がします。

 「自助論」は、当時のイギリスで圧倒的多数のイギリス人の支持を得てベストセラーとなりました。もちろん他の国でもベストセラーとなったわけですが、どこの国でもベストセラーになったわけではありません。「自助論」が、多くの人々に支持された国は、世界史を変えてしまうほどの偉大な歴史を持った国だけでした。

 明治四年、「自助論」は中村正直によって「西国立志編」として翻訳されました。この本は、当時の日本で、なんと百万部以上も売れたと言われています。本が、とても貴重だった当時のことでしたから、実質的に「西国立志編」は、五百万人以上の人々が読んだといっても、さしつかえないでしょう。当時の人口を考えてみれば、文字の読める成人男子のほとんどが、この「西国立志編(自助論)」を読んだことになります。現代の感覚で言えば、数千万部のベストセラーと言っていいでしょう。

 歴史の教科書には、「西国立志編(自助論)」のことは何も書かれていませんが、この事実を無視しては、『生きた歴史』は語れません。
 まだ、日本人のほとんどが、ちょんまげでいた時代に、西洋の侵略に、幕末の戦乱に国民が疲弊していた時代に、

「天は自ら助くる者を助く」

と言うスマイルズの言葉に、明治の青年たちは、大いに奮起しました。そして、その奮起は、奇跡の成長を明治時代につくりあげました。たかだか三十年ちょっとの間に、ヨーロッパ並みの国力を作り、当時、世界最強の陸軍国であったロシアを破り、さらには世界のリーダーとして国際舞台で活躍するまでになりました。

 当時の日本とヨーロッパの格差は、文化的にも、経済的にも、軍事的にも、そうとうの開きがありました。その絶望的な開きを、明治の人たちが、ものともしなかったのは、「西国立志編(自助論)」のためといってもいいでしょう。「西国立志編(自助論)」を読んだ明治の人たちは、日本が西洋に遅れている理由は、人種や、社会体制によるものではなく、個人の自助努力が足りないからだと考えたからです。自分が貧乏なのも、自分が人より劣っているのも、自分が不運なのも、全て自分の自助努力が足りなかったと考えたからです。

 なぜ、日本だけが植民地にならなかったのか? なぜ日本だけが短期間にヨーロッパに追い付いたのか? なぜ、日本が戦後の奇跡の復興を成し遂げたのか? その謎は、「自助論」を圧倒的に支持する精神が、日本人の心の中に存在したからと言ってもいいでしょう。

 しかし、今の若い人たちで、この「自助論」を知っている人は、まれです。歴史の教科書にも載っていません。歴史の教科書には、年号とか、人名とか、作品名とかしか載っていないのです。かって明治の人たちの心を動かした「自助論」は忘れ去られようとしているのです。

 実は、「自助論」は、イギリスでは、とうの昔に忘れ去られてしまいました。何十年も前から忘れ去られたままになってしまいました。しかも、イギリスでは「自助論」を語ることが悪徳とさえ思われるようになりました。その理由は、イギリスで社会主義勢力が台頭してきたからでした。

 「自助論」の「天は自ら助くる者を助く」とか「すべては人間が自らを、どう支配するかにかかっています。それに比べれば、その人が外部に、どう支配されるかと言う問題は、さほど重要ではありません。例えば暴君に統治された国民は、確かに不幸です。しかし、自分自身に対する無知やエゴイズムや悪徳のとりこになった人間の方が、はるかに奴隷に近いのです」と言う言葉は、制度(法律)や社会体制の改革を目的とした社会主義者にとっては、非常に都合の悪い言葉でした。

 だから、イギリスで社会主義が台頭したとき、「自助論」が葬り去られたわけです。イギリスの人々は、自分をどう支配するかと言う問題よりも、国家にどう支配されるかと言う問題の方に、関心を持つようになりました。御父さんの幸せを考えるよりも、老人ホーム増設を政府に要求する方に関心を持つようになりました。努力して幸せを掴むより、労働運動の方に関心を持つようになりました。そして、大英帝国は、少しずつ崩壊していったのです。

 マルクスをはじめとする社会主義者たちは、人々の幸せは、富(物質)であると思い込んでいました。だから、法律を変え、制度を変え、富を再配分すれば、人民は幸せになると信じ込んでいました。だから武力にたよってでも社会改革に熱中したわけです(しかし、その社会主義は、ソ連の崩壊と共に勢いを失いつつあります)。

 ところがスマイルズは、そういう外からの支配(社会体制)の改革だけでは、人は幸せになれないと言いました。人が幸せになるためには富(物質)よりも、個人の心の中が問題だと言ったのです。外からの支配より、内なる支配(自分自身の支配)が問題だと言ったのです。そして、明治の日本人たちは、マルクスにではなく、スマイルズの方に感銘したのです。

 かっての社会主義者たちのように、私たちも、富(物質)や外からの支配を変えることで、幸せになれると思ってる人たちは多くないでしょうか? 両親の幸せを考えることより、老人ホームの建設を願う人は多くないでしょうか? 障害者の心の支えになるよりも、障害者施設の充実を考えている人は多くないでしょうか? 確かに障害者施設が充実すれば、障害者の物質的側面は満たされるでしょうが、その施設からは、星野富弘さんの、あの素晴らしい絵や詩が生れてくることはありません。星野富弘さんの、あの美しい絵は、立派な障害者施設から生れてくるものではありません。施設に、社会体制に、美しい詩を作る力はないのです。あの美しい詩は、人の『心』の中でしか作ることができないのです。

 スマイルズは、素晴らしい贈物を私たちに残してくれています。これを受け取らない手はありません。中に書かれてある文は、ごく常識的なものです。昔、小さかった頃、御父さんや御母さんや先生などに教えてもらった、あたりまえのことが書かれてあるのです。でも、このあたりまえの事が、大人になると忘れかけてしまうのです。だから、そのあたりまえのことを思い出してみたいですね。
posted by ss at 20:21| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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